[パワプロ2018]MLB リッキー・ヘンダーソン[パワナンバー]
どうもこんばんは、カムラです!
パワプロの実在選手作成のコーナーです。
今回から数回はG.W.リクエスト企画!ということで質問箱やコメント欄でリクエスト頂いた選手を作成していきます!
第四弾は、1979〜2009年まで活躍したリッキー・ヘンダーソン選手を作成していきます!
リッキー・ヘンダーソンとは?
オークランド・アスレチックス (1979 - 1984)→ニューヨーク・ヤンキース (1985 - 1989)→オークランド・アスレチックス (1989 - 1993)→トロント・ブルージェイズ (1993)→オークランド・アスレチックス (1994 - 1995)→サンディエゴ・パドレス (1996 - 1997)→アナハイム・エンゼルス (1997)→オークランド・アスレチックス (1998)→ニューヨーク・メッツ (1999 - 2000)→シアトル・マリナーズ (2000)→サンディエゴ・パドレス (2001)→ボストン・レッドソックス (2002)→ロサンゼルス・ドジャース (2003)→ニューアーク・ベアーズ (2003 - 2004)→サンディエゴ・サーフドーグス (2005)
リッキー・ヘンダーソンは、1976年にオークランド・アスレチックスからドラフト4巡目指名を受け入団したプロ野球選手です。
入団後は3年間マイナーリーグでプレーし、マイナーリーグタイ記録の1試合7盗塁を記録した後に満を辞して1979年にメジャーデビュー。
メジャー初打席で早速ヒットを放つと、ルーキーイヤーにも関わらず33盗塁を記録する活躍を果たしました。
翌シーズンにはアメリカンリーグ新記録となる100盗塁を記録し、1980年から1986年にかけて7年連続盗塁王を獲得しました。
特に1982年には現在もMLB記録として残る130盗塁という大記録を達成。
以降も着実に盗塁数を増やしていき、1991年に当時のMLBの通算盗塁記録だったルー・ブロックの938盗塁を破る939盗塁を、1993年に福本豊の盗塁世界記録を破る1066盗塁を記録するなど名実ともに史上最強のリードオフマンの称号を欲しいままにしました。
また、ヤンキース時代からは本塁打数も増えていき、86年には28本塁打を記録するなど長距離打者としても名を馳せました。
最終的に2009年の殿堂入りをもって現役引退を宣言するまで1979年から2003年までの25シーズンでMLB9球団で、2004年からは米独立リーグのニューアーク・ベアーズや、サンディエゴ・サーフドーグスでプレーしMLB歴代1位の通算1406盗塁を記録しました。
彼が着けた背番号「24」は2009年、オークランド・アスレチックスの永久欠番に認定されております。
第一線を退いてからはニューヨーク・メッツの特別インストラクターや一塁コーチ、アスレチックスの球団社長特別補佐を務めた他、2019年のアスレチックス-マリナーズの日本開幕戦で来日し、佐々木主浩-城島健司のバッテリーを相手に始球式に出るなどしておりました。
査定
・能力
選手査定ノート(出典:http://playersnote.blog.fc2.com/blog-entry-1354.html)を参考に作りました。
(ユニフォームはアスレチックス同様緑を基調とした南海ホークス→ソフトバンクに決めました)
次回以降もリクエスト企画の選手を作って行けたらと思います!
(若干ネタ切れになりつつあるので何かリクエストとかあればコメントしていただけると幸いです!)
それでは!
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[音楽ニュース]クラフトワークの創設者、フローリアン・シュナイダー氏が死去
皆さんこんにちは、カムラです。
今日のニュースはこちら
クラフトワークの創設者として活躍したフローリアン・シュナイダー氏が先日73歳でお亡くなりになられました。
フローリアン・シュナイダーはドイツ出身のミュージシャンで、1970年にテクノポップの先駆けとなった伝説的音楽グループ、クラフトワークの創設メンバーとして活躍した人物です。
テクノポップの先駆者、クラフトワーク
クラフトワークを創設後は音声合成を専門とし、独創的なサウンドでマイケル・ジャクソン、デビッド・ボウイ、YMOら世界中のアーティストに多大な影響を与えただけでなく、1973年にはセンサーパッドの付いた電子パーカッションを発明するなど、演奏面以外でも音楽業界に大きく貢献しました。
2008年以降はライブツアーを引退し、翌年正式にクラフトワークを脱退すると自身の創作活動に専念しておりました。
[パワプロ2018]近鉄バファローズ 小川亨[パワナンバー]
どうもこんばんは、カムラです!
パワプロの実在選手作成のコーナーです。
今回から数回はG.W.リクエスト企画!ということで質問箱やコメント欄でリクエスト頂いた選手を作成していきます!
第三弾は、1960〜80年代頃に活躍した小川亨選手を作成していきます!
小川亨とは?
宮崎県立宮崎商業高等学校→立教大学→近鉄バファローズ (1968 - 1984)
小川亨は1967年のドラフト3位で近鉄バファローズに入団したプロ野球選手です。
1年目から一軍に定着すると、翌1969年からは長打も増えるようになり、同年から5年連続二桁本塁打を放つだけでなく、7年連続で二桁盗塁を記録するなど走攻守でチームの中心打者に成長していきました。
以降も最高出塁率(1975年)を獲得したほか、初のリーグ優勝(1979年)に貢献するなど数々の輝かしい成績を収めております。
また、今回作成した1980年度には自己最高となる打率.323を記録し、広島との日本シリーズでは7試合すべてに安打を放ち、23打数9安打5打点と敢闘選手賞を獲得する奮闘ぶりを発揮しました。
そして、1984年を最後に近鉄一筋の17年の現役生活を引退しました。
引退後は近鉄やオリックスの打撃、守備走塁コーチを歴任し近鉄の89年のリーグ優勝に貢献した他、朝日放送や文化放送の解説者やプロ野球マスターズリーグに参加したり、中学硬式野球チームの監督も務めたりと幅広く野球界の発展に尽力しております。
査定
・基本能力
基本能力は選手査定ノート(出典:http://playersnote.blog.fc2.com/blog-entry-1354.html)を参考に作りました!
・粘り打ち、選球眼
四球をよく選び、出塁率が高かったとしれる為追加で付与しました。
次回は「Man of Steal」こと、MLB史上最強のリードオフマンと称されたリッキー・ヘンダーソン選手を作って行けたらと思います!
(若干ネタ切れになりつつあるので何かリクエストとかあればコメントしていただけると幸いです!)
それでは!
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[パワプロ2018]東映フライヤーズ 土橋正幸[パワナンバー]
どうもこんばんは、カムラです!
パワプロの実在選手作成のコーナーです。
リクエスト企画第二弾!
今回は1950〜60年頃に東映のエースとして活躍した土橋正幸選手を作成しました!
土橋正幸とは?
東京都立日本橋高等学校→フランス座→東映フライヤーズ (1955 - 1967)
土橋正幸は、1955年に東映フライヤーズの入団テストを受けて入団することになったプロ野球選手です。
入団後はとにかく投げ込む練習を行い、3年目の1957年に頭角を現すと、当時の日本記録であった沢村栄治の15奪三振を上回る1試合16奪三振を記録し、1961年には30勝、防御率1.90の成績を残しました。
その後も1962年のリーグ優勝に貢献し、阪神タイガースとの日本シリーズでは全7戦のうち6試合に登板し2勝1敗する活躍をしたことから史上唯一、種茂雅之とともにMVPに2人選ばれました。
しかし1965年以降は肩や手首、アキレス腱などを痛め、1967年限りで引退しました。
現役引退後は東映や日拓、日本ハム、ヤクルトの投手コーチ、監督を務めた他、プロ野球解説者やプロ野球マスターズリーグの東京ドリームス監督、並びに沢村賞の選考委員も務めており、2013年に77歳で亡くなりました。
査定
・基本能力
基本能力はパワプロ14のデータ(出典:http://www.baseless.org/data/)を参考に作りました!
・回復A、怪我しにくさB
先発で年間63登板をした他、毎年のように200イニング以上投げ続けたことから付与しています。
・根性○、テンポ○
ちぎっては投げ、ちぎっては投げの江戸っ子投法なる投げ方をしていたことを再現しようと
次回はリクエスト企画を続行して作って行けたらと思います!
(若干ネタ切れになりつつあるので何かリクエストとかあればコメントしていただけると幸いです!)
それでは!
[パワプロ2018]大洋ホエールズ 基満男[パワナンバー]
どうもこんばんは、カムラです!
パワプロの実在選手作成のコーナーです。
今回から数回はG.W.リクエスト企画!ということで質問箱やコメント欄でリクエスト頂いた選手を作成していきます!
第一弾は、1960〜80年代頃に活躍した基満男選手を作成していきます!
基満男とは?
報徳学園高等学校→駒澤大学(中退)→篠崎倉庫→西鉄ライオンズ→太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ (1967 - 1978)→横浜大洋ホエールズ (1979 - 1984)
基満男は1966年のドラフト外で西鉄(現西武ライオンズ)に入団したプロ野球選手です。
プロ入り後は1年目から遊撃手や二塁手で出場して二番打者に定着し、ベストナインを受賞するなど、パ・リーグを代表する二塁手となりました。
1976年からは二塁手を吉岡悟に譲り遊撃手に回ったものの出場機会が減少し、78年のオフに鵜沢達雄、根本隆との交換トレードで横浜大洋ホエールズに移籍します。
移籍初年度である1979年は三塁手も兼ねて活躍し、勝負強い打撃で三番打者としても起用され、同年当時の監督であった別当薫監督から振り子打法の助言を受けました。
そして、移籍2年目の1980年からは二塁手に専念し、引き続き打線の中軸を任されるとダイヤモンドグラブとベストナインに輝く大活躍を果たしました。
しかし、1983年頃から高木豊が成長し、定位置を譲ると翌1984年に一軍コーチ補佐兼任となり、同シーズン限りで現役引退しました。
引退後は大洋や日本ハムの外野守備・打撃コーチを務め、スポーツ評論家なども行っています。
査定
・基本能力
基本能力は選手査定ノート(出典:http://playersnote.blog.fc2.com/blog-entry-1354.html)を参考に作りました!
(大洋時代なのに間違えて西武ユニになっている…)
・選球眼
四球をよく選び、出塁率が高かったとしれる為追加で付与しました。
次回はプロ野球の黎明期に東映フライヤーズで活躍した土橋正幸選手を作って行けたらと思います!
(若干ネタ切れになりつつあるので何かリクエストとかあればコメントしていただけると幸いです!)
それでは!
合わせて読みたい
[パワプロ2018]阪神タイガース マーク・ジョンソン[パワナンバー]
どうもこんばんは、カムラです!
パワプロの実在選手作成のコーナーです。
阪神の助っ人外国人を作成シリーズ!!
第二十四弾は、1999年頃に阪神に在籍したマーク・ジョンソン選手です!
マーク・ジョンソンとは?
ホーリーネーム・セントラル・カトリック高等学校→ダートマス大学→ピッツバーグ・パイレーツ (1995 - 1997)→アナハイム・エンゼルス (1998)→阪神タイガース (1999)→ニューヨーク・メッツ (2000 - 2002)
マーク・ジョンソンは1990年のMLBドラフト20巡目でパイレーツから指名され、プロ入りした野球選手です。
パイレーツ入団後は傘下のAA級でプレーし、本塁打王に輝く活躍をして、1995年にメジャーデビューを果たします。
その後1999年に阪神タイガースに外野手として入団が決定して来日すると、オープン戦だけでなく開幕後も絶好調で4試合連続本塁打や代打逆転サヨナラ3ラン本塁打を記録し、前半戦で19本塁打を打つなど暗黒期阪神においては大成功といっても良いくらいの獅子奮迅の活躍をしました。
しかし、相棒であるブロワーズを失ったからか、弱点がバレてしまったからか後半からは一気に失速してしまい、いつもの阪神外国人となって1本塁打に終わりいつものようにシーズンオフで退団となりました。
阪神退団後はニューヨーク・メッツに入団してMLBに復帰し、2002年に現役引退をしています。
引退後は金融マンとしてウォール街で活躍しているようです。
査定
・基本能力
基本能力はパワプロ1999年度のデータ(出典:http://www.baseless.org/data/)を参考にしつつ、当時の助っ人外国人レビューをされている方のサイト(https://debubu.com/hanshing2000hardtke.html)を参考に作りました!
・逆境、サヨナラ男
対中日戦で9回表に宣銅烈から逆転3ランを打つなど、ピンチの場面で打つことが多かった為付与しました!
・調子極端
前半で19本本塁打を打ったにも関わらず、後半では1本しか打てないと言ったように好不調の波が激しい為付与しました。(これを言い出すと阪神の助っ人外国人の大半が調子極端になる気がする…)
次回は1999年に阪神でジョンソン選手と共に活躍したブロワーズ選手を作って行けたらと思います!
(若干ネタ切れになりつつあるので何かリクエストとかあればコメントしていただけると幸いです!)
それでは!
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[パワプロ2018]阪神タイガース ジェイソン・ハートキー[パワナンバー]
どうもこんばんは、カムラです!
パワプロの実在選手作成のコーナーです。
阪神の助っ人外国人を作成シリーズ!
第二十三弾は、2000年頃に阪神に在籍したジェイソン・ハートキー選手です!
ジェイソン・ハートキーとは?
リーランド高等学校→ニューヨーク・メッツ (1996 - 1997)→シカゴ・カブス (1998)→阪神タイガース (2000)
ジェイソン・ハートキーは1990年のMLBドラフト3巡目でクリーブランド・インディアンスに指名され契約しまプロ野球選手です。
1996年にニューヨーク・メッツでメジャー初昇格すると、シンシナティ・レッズやコロラド・ロッキーズ傘下に所属してプレーしてきました。
そして開幕から不振のハワード・バトルに代わる外国人選手として2000年に阪神タイガースに入団し、攻守にわたる堅実なプレーを活かしてシーズン後半戦は四番新庄の脇を固める活躍をしましたが、わき腹を痛めて同年シーズンオフで退団します。
現在はアリゾナ・ダイアモンドバックス傘下A+(アドバンスドA)のバイセイリア・ローハイドの監督を務めているそうです。
査定
・基本能力
基本能力はパワプロ2000年度のデータ(出典:http://www.baseless.org/data/)を参考にしつつ、当時の助っ人外国人レビューをされている方のサイト(https://debubu.com/hanshing2000hardtke.html)を参考に作りました!
次回は1999年に阪神に在籍したマーク・ジョンソン選手を作って行けたらと思います!
(若干ネタ切れになりつつあるので何かリクエストとかあればコメントしていただけると幸いです!)
それでは!
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[パワプロ2018]阪神タイガース マイカ・フランクリン[パワナンバー]
どうもこんばんは、カムラです!
パワプロの実在選手作成のコーナーです。
阪神の助っ人外国人を作成シリーズ!
第二十二弾は、2000年頃に日本ハムからトレードで阪神に移籍したマイカ・フランクリン選手です!
マイカ・フランクリンとは?
リンカーン高等学校→セントルイス・カージナルス (1997)→日本ハムファイターズ (1999 - 2000)→阪神タイガース (2000)→現代ユニコーンズ (2002 - 2003)
マイカ・フランクリンは1990年のMLBドラフト3巡目でニューヨーク・メッツに指名され契約したプロ野球選手です。
1997年にセントルイス・カージナルスでメジャーデビューするものの、メジャーでプレーしたのはこのシーズンだけで、主にマイナーリーグでの生活が中心となりました。
そして3年越しのラブコールを受け、1999年に日本ハムファイターズに入団し、持ち味だった両打ちを駆使して左右両打席本塁打を放つなどの活躍を遂げました。
しかし、調子に波があることもあり徐々に成績が降下、最終成績は30本塁打、80打点を記録したものの打率は.238と不安要素の残るものになりました。
そして2000年シーズンに入ると同じ外国人野手のナイジェル・ウィルソンとシャーマン・オバンドーが復調したことで出場機会を失い、6月に四番として期待したバトルが期待外れに終わった阪神タイガースにトレードされます。
前年までの長打力を期待しての獲得でしたが、膝の故障で満足に動けず、同年シーズンオフに退団し、帰国しました。
阪神退団後はマイナーリーグや韓国リーグでプレーし、同年限りで現役を引退します。
査定
・基本能力
基本能力はパワプロ2000年度のデータ(出典:http://www.baseless.org/data/)から故障を考慮したワンランクダウンで再現しました。
・怪我しにくさF
怪我が元で本来の力を出せなくなった事から怪我しやすく設計しました。
・走塁、盗塁E
膝を故障したことを再現する為に付与しました。
次回は2000年に阪神に在籍したジェイソン・ハートキー選手を作って行けたらと思います!
(若干ネタ切れになりつつあるので何かリクエストとかあればコメントしていただけると幸いです!)
それでは!
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[パワプロ2018]阪神タイガース ハワード・バトル[パワナンバー]
どうもこんばんは、カムラです!
パワプロの実在選手作成のコーナーです。
阪神の助っ人外国人を作成シリーズ!
第二十一弾は、2000年頃に阪神に在籍したハワード・バトル選手です!
ハワード・バトルとは?
マーシークロス高等学校→トロント・ブルージェイズ (1995)→フィラデルフィア・フィリーズ (1996)→アトランタ・ブレーブス (1999)→阪神タイガース (2000)
ハワード・バトル選手は1990年のMLBドラフト4巡目でトロント・ブルージェイズに指名され契約したプロ野球選手です。
1995年にメジャーデビューすると、その後はフィラデルフィア・フィリーズ、アトランタ・ブレーブスと渡り歩きました。
2000年からはトニー・タラスコと共に阪神タイガースに入団し、当時監督だった野村克也に三振数の少なさを見込まれて「4番三塁」として期待されました。
しかし、太りすぎのためキャンプも開幕も二軍スタートという体たらくで結局一軍に上がってからも大した結果を残せず、日本ハムファイターズからマイカ・フランクリンを獲得することとしたこともあり、シーズン中に解雇されました。
査定
・基本能力
基本能力はパワプロ2001年度のデータ(出典:http://www.baseless.org/data/)を参考にしました。
・バント○、ムード○
成績は散々なものでしたが、バトルが一軍にベンチにいるとなぜか連勝が続いたため『勝利の大黒様』と呼ばた他、バントの名手として当初とは全く違った所で地味に活躍したこともあります。
・意外性
NPBで挙げた唯一の打点と本塁打は、阪神甲子園球場で中日の岩瀬仁紀から放ったソロホームランであったことから意外性を付与してみました。
次回は2000年に阪神に一瞬在籍したマイカ・フランクリン選手の阪神バージョンを作って行けたらと思います!
(若干ネタ切れになりつつあるので何かリクエストとかあればコメントしていただけると幸いです!)
それでは!
合わせて読みたい
[パワプロ2018]阪神タイガース トニー・タラスコ[パワナンバー]
どうもこんばんは、カムラです!
パワプロの実在選手作成のコーナーです。
阪神の助っ人外国人を作成シリーズ!
第二十弾は、2000年頃に阪神で活躍したトニー・タラスコ選手です!
トニー・タラスコとは?
サンタモニカ高等学校→アトランタ・ブレーブス (1993 - 1994)→モントリオール・エクスポズ (1995)→ボルチモア・オリオールズ (1996 - 1997)→シンシナティ・レッズ (1998)→ニューヨーク・ヤンキース (1999)→阪神タイガース (2000)→ニューヨーク・メッツ (2002)
トニー・タラスコは1988年のMLBドラフト15巡目でアトランタ・ブレーブスから指名され、プロ入りした野球選手です。
1993年にメジャーデビューを果たすと、モントリオール・エクスポズやボルチモア・オリオールズ、シンシナティ・レッズ、ニューヨーク・ヤンキースとチームを渡り歩きました。
そして2000年に阪神タイガースに入団すると、主に右翼手として起用され陽気な性格と強肩ですぐに人気者になりました。
他の助っ人外国人のご多分に漏れず、オープン戦で絶好調を発揮し、活躍を期待されましたが、シーズンに突入すると低打率を記録するようになり、得意の外野守備で坪井、新庄選手と共に鉄壁の外野陣を築きましたが、打率.239、19本塁打、57打点と期待外れの成績となり、シーズンオフに解雇となりました。
2002年以降はニューヨーク・メッツでメジャーに復帰してそこそこの成績を残すものの、大麻所持の報道がなされて引退しました。
引退後はワシントン・ナショナルズ傘下で守備走塁コーチを務めました。
査定
・基本能力
基本能力はパワプロ2001年度のデータ(出典:http://www.baseless.org/data/)を参考にしました。
イメージとしては新庄選手のワンランク下位互換って感じで作ってます。
・レーザービーム
新庄選手には劣るものの、高い守備力と強肩で外野を支えたので付与しました(ただし、時々エラーや捕球ミスはしていたので補給は下げ気味です。)
・調子極端
また、好不調の波が激しいこともの特徴なので調子極端を付与してます。
次回は2000年に阪神で活躍したハワード・バトル選手を作って行けたらと思います!
(若干ネタ切れになりつつあるので何かリクエストとかあればコメントしていただけると幸いです!)
それでは!
合わせて読みたい